
大増城(八幡平城・石岡市大増字八幡平)
大増城は、八郷町の北部にある。県道64号線沿いに「大増」というバス停があるが、その西側に少し入っていった所に顕徳院という寺院がある。その西南側の比高20mほどの台地が城址である。台地奥の1郭の土塁上には八幡神社の祠が祭られており、八幡平城の別名はこれによるものである。またこの城に南側から続く登城道は馬場道と呼ばれているという。
台地上はかなり広大であるが、段々の畑の跡が荒地となって広がっている。基本的にはこれらの畑地跡が郭であったのではないかと思われるが、気になるのは、これらの畑の土手がみな新しいもののように見えることだ。これらは重機による近代のものの可能性が高いので、この畑の配列をそのまま郭の構造として認識してしまうと、かなりの勘違いをしそうである。とはいえ、耕地整理するにも、旧状を最大限に活かした方が効率的であるので、城塁がそのまま生きている場合もある程度はあると思われるが、現状ではどこまでが遺構であるのか区分するのは難しい。
しかも台地上はかなり広いため、これらをすべて城域として捉えると、大増城は茨城でも屈指の大城郭の1つということになるであろう。しかしそれではあまりにも広大でありすぎる。実際には7の堀跡と思われる窪み辺りまでが城域ではなかったろうか。先端の広い部分などは梅林などになっているが、地勢が平坦ではないのである。ただしこの台地、斜面が天然の切岸といっていいくらい急峻になっているので、何もしなくても、そのまま籠城できるくらいの要害性はある。これについては、次のような発想をしてみると面白い。段々の数多い郭は、城主とその一族だけのスペースとしては広大に過ぎる。しかし、合戦時に領主が村人たちも保護するスペースとして利用されていたと仮定すると、広大な台地も「生きた空間」になると考えられる。横から見るとこの台地は2つの山が並んでいるようにも見えるのであるが、それらを城主の籠城場所、領民たちの籠城場所、といったように区分して考えてみるというのはどうであろう。まったくの想像であるが、そんな風に「想像してみたくなってしまう。
遺構が明瞭に見られるのは1、2の郭とその背後の尾根続きの部分である。2の部分が実質的な主郭であろう。長軸60mほどの郭である。その北側には2郭よりも2mほど高い細長い郭がある。ここには実際には郭というほどの広さはないのだが、土塁にしては幅広なのでここを仮に1郭としてみた。そのさらに南側には土塁が盛られており、その先端部に先に述べた八幡様の祠がある。八幡は大増城主古尾谷氏の守護神であり、この祠も古尾谷氏によるものであるらしい。この祠の周囲には石垣の残欠が見られるが、これは近代のものであろう。
八幡のある土塁の南側には二重堀がある。いずれも土橋を一本だけ残して両脇を竪堀にして深く掘り込んでいる。ただし、1郭直下の堀は西側では横堀となって台地の下の方まで続いている。
二重堀の南側には細長い小郭が1つあり、その先に再び堀切がある。この堀切は深さ5m、幅8mほどあり、現存する堀切では最大のものである。この先の尾根続きは地勢が再び高くなっていくので、この堀切がボトムということになる。ここが城域を画するものであると見てよいであろう。この尾根続きとの区画の仕方は、同じ八郷町の手葉井山城でも見られるもので、ちょっと構造的な類似性が認められるが、築城にまつわる人物に何らかの共通性があったのかもしれない。(ここの城主古尾谷氏と手葉井山城の城主小幡氏とは、ともに小田氏の古い家臣である。)
この城の残存遺構で最も特徴をうかがい知ることができるのは、3の虎口とその周辺であろう。下から道を上がってくると、3の虎口のところで道が2つに分かれる。左手に進むと、道は堀底を通るのであるが、この間、敵は2郭の塁上と5の郭の土塁の上からとの両側面からの攻撃にさらされることになる。ルートを折り曲げ複雑にすることによって、敵の動きを食い止めようとする意図がよく見えるのである。こうした技巧的部分は戦国期に形成されたものであろう。おそらく本来は城全体に技巧的な部分が見られたのではないかと思うが、城域の大半が耕地整理のために重機によって荒らされてしまっているので、現状ではそうしたものを他の部分で見ることはほとんどできない。
このように大増城は城域もかなり広く、そこそこ技巧的な戦国期の城郭であったと考えられる。ただし改変がひどいために、細かい部分で旧状を推し量るのはかなり難しくなってしまっている。
それにしても。この台地上はかなり広くて畑作には非常にいい場所であると思われるが、現在ではほとんど捨てられてしまっている。農業後継者がいないということなのだろう。
参考資料 『八郷町の中世城館』(八郷町教育委員会)








